FC2ブログ

ぶどうの木のあれこれ

カウンセリングルーム『ぶどうの木』へようこそ。

スポンサーサイト  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

tb: --   cm: --

痛みと負のループ  

こんにちは。 

7月の予定を載せています。

蒸し暑い日が続いています。
梅雨らしく、じめじめとした湿気を肌に感じますね。
以前にも書いたような気がしますが、私はこの梅雨の時期が苦手です。
いままで病気やらで体を壊してきたのは、いつもこの時期。

前例にもれず、今年もやはり身体の不調が襲ってきました。

今年は、持病の椎間板ヘルニアによる腰の激痛・・・。

今回は、長くなります。
私の、身体の痛みとの格闘は貴重な体験になっているので、読んでくださった方に、そこで得た気持ちを少しでもお伝えできればと思います。

それは、一週間前の職場で一人いるときに、ヒタヒタと忍び寄ってきました。
ルーム内の掃除や片づけを行なっているときでした。

物置がわりにしている空間で、溜まっている荷物を仕分け、掃除をしているときに、痛みではなく腰のだるさを感じていました。いつものことなので、さほど気にもせず、構わずに作業を続けていました。

やがて、片づけが終わりに近づいていきました。
やれやれという気分で自分の机の近くに戻って床に座り、最後の作業をしているときです。
突如、大激痛が腰部分を襲ってきたのです。
とても痛くて普通に座っていることができず、ヘタヘタと倒れこんでしまいました。
寝返りを打とうとして、体をよじるたびに、痛くて情けなくも甲高い声で悲鳴をあげてしまいました。
「あたたたた・・」

しばらく、横になってじっ~としているしかありません。

でも、以前にも同じようなことを経験しているので、しばらく横になっていれば、やがて自然に痛みは引くということは分かっています。

のたうちまわりながら、ようやく机までたどり着き、引出しから鎮痛剤を出し、飲んでまた横になり、2時間が経過。
ようやく痛みが引き、そのままおじいさんのように腰を折りながら外へ出てよろよろ歩き、整形外科へ行って、処置をしてもらいました。痛み止めの注射を背中に・・。


椎間板ヘルニアと診断されたのは、3年前。
それから、腰痛を抱えながら現在に至っています。

いままで整形外科、整体、鍼灸、整骨院などへ行き、さまざまな治療を受けています。


最近、身体的な治療観点ではなく、心理的な視点で腰痛をとらえる研究が報告されています。
骨盤や背骨、腰椎は、年齢とともに大多数の人が歪んでくるそうです。
そして、実際には椎間板のヘルニアの状態になっていても、私のような痛みを感じる人と、痛みを感じない人がいるというのです。

いったいどういうことなのだろう・・。じゃあ、この激痛は何なんだろう?

これらの研究によると、椎間板ヘルニアと診断されて、痛みを感じている人の脳の血流量を測定したら、7割の腰痛患者が、健康な人に比べて血流量、つまり脳の働きが低下していたそうです。

が~ん。
脳の働きが低下って・・。

そしてさらに調べてみると、脳内の「側坐核(そくざかく)」という部位の活動が特に低下しているとのこと。
ここは、痛み信号が脳に届くと、鎮痛物質を働かせる命令を出すと考えられています。しかし、慢性的なストレスを受けると、側坐核の活動が低下し、痛みが抑えられず激痛を感じてしまう、ということらしいのです。

さらに、が、が~ん。
ストレス・・・。

つまり、ストレスと腰痛は関係が深いということ。
どこかで分かってはいたものの・・・
当たり前といえば当たり前と分かるものの・・

何やら盲点を突かれた気分。

しかしながら納得。
ここ最近は、個人的にも仕事的にもいろいろ重なり、精神的にどよ~~んと重く、慢性的な疲れを感じていたことは確か。
しかも、今回は激痛が何日も続いてしまいました。


身体には、さまざまな痛みがあります。
それはもちろん、身体のさまざまな部位が肉体的物理的に損傷を受けたり、病みはじめることがきっかけなのは間違いないでしょう。

しかし、その後の多くの痛みの中には、精神的なものが関与していることも否定できない事実です。

この腰痛を経験した中で気づいたのは、私は腰痛を感じると、この痛みだけに注意が向きすぎてしまいます。「痛みを何とかしよう」、「何とか取り除こう」ということに躍起になりすぎてしまいます。
もう、頭がそれだけになってしまうのです。
しかし、そう思えば思うほど、この痛みは言うこと聞かず、どんどん激しくなり、やがて気分が鬱々(うつうつ)としていきます。
だけどそうなってくると、やはりまた「痛みを何とかしよう」と、また最初に戻って・・
・・と悪循環、負のループにからめとられてしまっていたのです。

自分自身が無自覚に痛みを大きく長くしていたとは、分かっていたようで分かっていませんでした。

もともとあった痛みを激痛にしてしまう、自分自身のストレス、心の問題。

これが分かってから、少し自分の生活や気持ちを見直そうと思いました。
だけど、こういう心の負のループは早々なかなか消えるものではない。自分の気持ちのクセであり、習慣になってしまった注意の向け方です。
この負のループを治そうとしても、すぐには治らない。
というか、治そうとしたら、また躍起な自分が出てきて、同じ悪循環にはまってしまう。
そんなこんな繰り返す毎日。

そうしてようやく、負のループを感じた時に「自分はまた負のループにはまっていること」に「気づく」だけでもいいか、と思うようにしました。そう気が付くだけで、あとは痛みを無理に消そうとしない。
気づいて分かるだけでも負のループと自分自身との間に距離ができる感覚が持て、少し楽になれました。

続いて、これからはいつも心を軽くしているように、明るく楽しい自分であるようにと、心がけるようにしています。
まだ、そう思い始めたばかりなんですが。

ですが、やはりそう思い始めたときから、自分でも笑ってしまうぐらい痛みが急速にが和らいできたのです。
なるべく負のループにはまらないようにというか、負のループを持ちつつも、心を軽くしていきたいという気持ちも作るようにと、気を付けるようにしています。


自分が持っている痛みや病と上手に付き合う。
それは、どうやら自分のストレスとどう付き合うのかという問題が大切な鍵になっているようです。

たかだか腰痛ぐらいのことで大げさに語ってしまいました。
心のことを専門としているのに、こんなことをわざわざ書くなんて恥ずかしい限りですが、この痛みの体験と緩和のプロセスは、自分にとって大事な体験だと感じて、こうして長々書いてみました。

今回、この腰痛のせいで多くのクライエントさんにご迷惑をおかけしました。
この場をかりて、お詫びいたします。




スポンサーサイト

category: ぶどうの木のあれこれ

tb: 0   cm: 0

一途に話す。  

今回は更新がだいぶ遅れてしまいました。
ご心配(・・してないか)おかけしました。


6月になりました。 6月の予定も載せています。

雨の日も多くなり、これから梅雨の時期になっていきますね。
植物は、この時期にたくさんの水分をとって、身体に栄養を行き届かせ、体力を消耗する夏に向けて準備をしていきます。

私たちも、梅雨の時期は長雨で、動くのがどうしても億劫になってしまいますが、そういうときもあっていいですよね。
「こういう時期にこそ、自分の力を温存し蓄えておこう」と考えれば、それはそれで必要な時期とも思えますよね。


あじさい




というわけで、最近私もちょっと「引きこもり」がちになり、本など漁りはじめています。

そのなかで「おや、いいこと言うねえ」と思ったのが、レヴィナスという哲学者の本。
私自身は、実は哲学の方面は疎いのですが、この人の考え方は何だか受け入れやすく、すっと心の中に入ってきました。まあおそらく、訳者(内田樹)の書き方が良かったんでしょうが。

そのなかで、「対話」と「志向性」について書かれています。

人間は何かを常に「めざす」生き物である。
その何かは、視覚的にわかるものとは限らない。意味や思惟をめざすこともある。いやむしろ後者の場合が多いのではないか。人間とかそういうものである、と。

そしてこの中で、「対話」の大切さを説いています。
対話することによって、志向している自分に気づく。
そして何を志向しめざしているかを自覚すると言っています。
レヴィナスは他者に何かを伝えるときには、書かれたもの(テクスト)よりも、口伝(つまり直接対話)を大切することも言っています。

目の前に他者がいる。
その人は、自分とまったく違う価値観や視点を持っている。
そういう他者に、自分の何かを伝えようとする。
言葉にならない何かを、一生懸命、つっかえながら、考えながら、言葉にしていく。
このプロセスを繰り返しているうちに、少しづつ自分の気持ちや、めざしていることが分かっていく。
自分の考えや、自分のある行動やひっかかっている意味に気づいていく。


何だか当たり前のことを言っているようですが、こう言葉にしてもらえると、私が考える対話の場っていうのは、それこそこういうものを目指していたんだな、と納得します。

確かにレヴィナスが言っているように、言葉というのはテクストにすると、意味が「枠づけ」され、単純化されてしまうことあります。迅速に、事務的に、必要事項だけ、要点だけという場合には、テクストは優れた方法かもしれません。

でも、自分の気持ちや、考え、また何をめざしているかということを伝えるためには、時間をかけて一途に、自分の口で、話してみる、その言葉にした何かを自分で聴いてみる。相手(他者)の話も聞いてみて、そして浮かんだこと、感じたことを言葉にしてみる。

うまく話そう、流暢に話そう、なんてことは考えなくていい。
一途に、自分の心を確かめながら、じっくり見つめながら、つっかえながら、間違いながら、噛みながら、言葉にしてみる。

むしろ、こういう感じになっている対話のときのほうが、大事なんじゃないかなと思います。

対話は、自分と相手の言葉の発音、間、呼吸、雰囲気などを感じながら、やりとりする場。
言葉そのものに、言葉にならない無数の意味を含みながら他者に伝え、他者を聞く。


僕も、レヴィナスの考えには到底及びませんが、そんなふうに対話する場を豊かに考えることができたらいいなと思っています。


category: ぶどうの木のあれこれ

tb: 0   cm: 0

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。